《土佐之夢》小說的資料

家紋篇

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家紋篇

揚羽蝶
『見聞諸家紋』では、井上右京亮貞忠の二つ遠雁。違い遠雁が小串氏、進藤氏、阿波の大西氏。菊水に二つ遠雁が大芋氏。笹竜膽に二つ遠雁が和州の越智氏。丸に三つ遠雁が高宮氏。カコの內一つ遠雁が高安河內入道永隆と飯尾左衛門大夫之種。『永倉追罰記』には、遠雁金は安部殿。水に雁は小串五郎とある。信州では、滋野氏の流れを汲む海野、望月、禰津、真田氏らが雁紋。また同じ信州で、このほか井上、赤井、上林、山口氏らが同紋である。
伊勢平氏。関
【橘】
【五七の桐】
本來は京都賀茂神社の神紋。『見聞諸家紋』では、丹波國船井郡の豪族西田氏が用いている。室町幕府八代將軍のころには、まだ徳川氏の家紋として表われていない。西田氏の場合は、古く丹波地方に賀茂信仰が萌していたことによるらしい。デザインはリアルな二葉立葵。三河地方の土豪松平、伊奈氏など周辺豪族をふくめて家紋の発達をみるのは、加茂郡そのものが奈良朝期すでに神戸があったからで、賀茂信仰が古くから盛んであったことによる。つまり、氏子豪族の表示。徳川家特有紋となるのは、慶長十六年以降のこと。
「土岐の桔梗一揆」といわれるように、桔梗のシンボルのもとに団結した土岐氏一族は美濃に威勢を振るった。『見聞諸家紋』でも土岐氏の存在が明らかである。織田信長を倒した明智光秀、秀吉に忠節を盡くした加藤清正などいずれも土岐氏族と伝えられる。また、相模の太田氏は多田氏族の出自をもつが桔梗紋。太田道灌が有名。末裔の重正のとき家康に仕え、のち遠江掛川五萬二千石。
『見聞諸家紋』では、楢葉左京亮の対い立鶴、佐脇五郎明房の雲月に舞鶴、波々伯部彥次郎賢豊の松喰い鶴、大和氏?遠江の蒲生氏の二つ引両に対い立鶴、石川氏の飛び鶴がみえる。『永倉追罰記』には高井左衛門尉の松に鶴、南部氏の菱鶴、近江御門の後裔葛山備中の庵の內対い鶴などがある。戦國末期には、諏訪氏や森氏の鶴の丸などがある。
一色。泰氏五男宮內卿法印公深。一色之祖也。
松皮菱
以上三家。號下馬衆。
【三ッ葉葵】
【梅鉢】
二つ引両は足利氏の代表紋。引両紋は幕紋からの転移といわれるが、その起源については明らかではない。『見聞諸家紋』によると、吉良、渋川、石橋、斯波、細川、畠山、上野、一色、山名、新田、大館、仁木、今川、桃井、吉見氏ら一族や閣僚メンバーがみえるほか、他紋と組み合わせたものに、赤松、三浦介、遠山、富永、長野、庄、吉川、波多野、神保、三淵、蜷川、川原、中沢、飯川、安木、大和、綺(Kawata)、黒坂、平尾、金山、物部、磯谷、三木、西面氏などの武將にみえる。
新田。重國次男義俊。大嶋。鳥山祖也。三男義兼。號新田。
(注:其後皆樣式,計四十七張,九十四頁。其書極簡,其事亦遠,故略,改列江戶之式)
椎名氏、富田氏などのほか、高安河內入道永隆の紋が『見聞諸家紋』にみえる。戦國末期に台頭した六郷氏や藤堂氏が蔦紋を用い、徳川一族の松平諸家のほとんどが蔦紋。しかし、応仁の亂直前のころの合戦をモデルに書かれた『永倉追罰記』には蔦紋がない。従來、蔦は葡萄の葉から考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私見としてあげれば、足利氏の桐紋の下賜が、次第に直接的ではなく、多くは賠臣的立場への派生を帯び、そのまた家來へと枝條的となっていったため、桐紋泛濫を避けるデザイン的知恵が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐紋の下部の葉だけを殘し、上の花を除いてその部分を葉に変えれば、桐紋が一転して蔦の紋となる。まだ花咲かぬという謙譲の精神をこめ、末梢的系譜の人々へ與えたのではないだろうか。
【下り藤の丸】
二引両、五七桐
もともとは海の彼方から渡來した貴族紋だが、武家社會に広く普及した。織田信長の家紋として有名だが、もとは朝倉氏の陪臣的家系だった。したがって朝倉氏も同紋。『見聞諸家紋』では、木瓜に二つ引両の富永氏、六つ木瓜の尾張守政長の被官游佐河內守、二つ木瓜に庵の海老名與七政貞、並び木瓜の岩城中務丞宗直、五つ木瓜の宮氏、大平氏。さらに、四つ木瓜の八木氏、大田垣氏、池田充正。三つ盛木瓜に二つ引両の三木氏などがみえる。
『見聞諸家紋』には越中松倉城主の椎名氏が用いたとみえている。豊臣秀吉の馬標が有名。木下氏の出自だったからといわれる。木下の親族福島正則も立ち沢瀉を用いた。このほk、大名家としては毛利、水野、土井、淺野、奧平、酒井氏その他が使用している。中國の戦國武將毛利元就が敵を追って川辺に至ったとき、水際に生えていた沢瀉にカゲロウが止まっているのを見、「勝ち草に勝ち蟲あり」と全軍を勵まし大勝を収めた話は有名。
土岐。頼光四世孫國房之末。國房者頼政之叔父也。童名文珠丸。正四位下。摂津守。鎮守府將軍。土岐氏。本出干源姓。故其為紋者。一変白色。乃以為水色。昔時唯用焉。是又所以貴其先也。後也有野戦時。取桔梗花挿干其胄以大得利窩矣、因為之例。逐置之水色之中。以為之定紋也。然不記其年月又其不知何人始為之也。源頼光為紋。末裔用之。故不得堅取其説。暫依其所聞。以書寫而已。
『見聞諸家紋』では、贄川氏や平野氏の「放れ馬」がみえる。平將門の後裔とする相馬氏は、下総の相馬から出て陸奧の相馬郡へ本拠を移し、馬の飼育放牧を司った。「繋ぎ馬」を家紋に用いている。
其之參
具平源氏。赤松兵部少輔政則
【竹に雀】
【丸に三つ葉柏】
【抱き稲】
【織田木瓜】
【隅立て四つ目結】
近江の佐々木一族の代表家紋として有名。『見聞諸家紋』では、佐々木大膳大夫入道生観の四つ目結。二松?飯田氏の三つ目結。本庄氏の九つ目結、武藤左京亮信用が寄掛り目結、椎屋氏が四つ目結、本間氏が十六目結、能勢氏が丸に十二目結紋とある。なお、佐々木氏の流れといわれる宇多源氏の武將京極?建部?亀井氏らも四つ目結。近江を出自とする尼子氏が七つ割り平四つ目結。越中の佐々氏は滋目結を用いた。
其之壱:
田大膳大夫賢信
【一つ遠雁】
【立ち沢瀉】
『長倉追罰記』によると、熊野の神官鈴木氏が用いている。宇多源氏を稱した亀井氏(津和野藩主家)は、紀州熊野の穂積氏の出自よいわれる。
桃井。義兼三男義胤。號桃井。此義兼者非新田義兼。矢田判官義清之舎弟也。
桔梗。但幕者無紋水色。
雲州佐々木凡此輪違也。塩冶
類従本では割菱も並載されている。(注:此即著名的武田菱)
前田家一族の紋章として広く知られている。素型は六曜星紋から天神紋へ変わり、利家の晩年頃に軸付きの梅鉢紋が生まれている。三代利常に及んで、本?支を明らかにするため剣梅鉢、丁字梅鉢などと多様化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅鉢紋を使用。
以上三管領也。
上野。泰氏四男義有。號上野。
一姓
【梶の葉】
渋川。泰氏之次男義顕之孫。
四つ目結
藤原庶流を名乗る武將の家紋である。加藤、佐藤。斎藤、近藤、首藤、進藤、武藤、尾藤、後藤……など庶流が用いた。『見聞諸家紋』では、讃岐の大野氏、摂津の伊丹氏、河內の由佐氏、美濃の伊賀氏、播磨の小寺氏、近江の箕浦氏などがみえる。『永倉追罰記』では、越中の神保氏、三河の鈴木氏その他がある。
見聞諸家紋(注:又名東山殿御紋帳。室町八代將軍足利義政撰)
【酢漿草】
石橋。泰氏の嫡流。自五世孫和義號石橋。
『見聞諸家紋』では、竹の丸に亀甲の朝倉下野守、三本竹の粟飯原氏、竹の丸に雀の上杉氏?箸尾藤徳丸、違い竹の河村氏、竹の丸に桐は明石越前守?上神氏?大鳥氏などがみえる。竹に雀紋は、上杉氏から長尾氏?伊達氏へと伝わっていった。その伊達氏はまた最上氏へと分譲している。
大舘。義兼四世孫基氏弟家氏。號大舘
【丸の內二つ引両】
源姓。八幡太郎。童名不動丸。或源太。従四位下。陸奧守。號金伽羅殿。鎮守府將軍。後冷泉院依勅。父頼義隨兵。奧州之安倍貞任誅。其弟宗任為降人。攻戦間九ケ年。其後藤武衡家衡與攻戦事三ケ年。康賓士暦。其間十二年也。合戦討勝。首級得一萬五千余天喜中上洛。為褒美依勅命。五七桐紋免許。故當家御紋。五七桐。二引両雲々。桐者根本安家之紋也。八幡殿貞任御退治以後。御上洛之時。依被望申下賜此桐紋雲々。
【丸に抱き杏葉】
其之四
古代に海の彼方から渡來したデザインである。『見聞諸家紋』には、曽我氏の雲に左三つ巴、赤松兵部少輔の二つ引両に左三つ巴、宇都宮氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景?越後の長尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鱗巴、丸豊前七郎朝達の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ積み巴、山下左京亮の桝形に右三つ巴、金山氏の一つ引両に並び巴がみえる。その他、厳島?大野?溫科氏らの替紋として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宮の神紋であった巴紋は、武家社會で人気があったことはいうまでもない。
【丸に三つ鱗】
宇多源氏。佐々木大膳入道生観(注:京極氏、六角氏之祖)
七寶に花菱
三つ星は大將軍星?左右將軍星の三つを指すので三武、武神としての信仰がある。一文字はカツと発音するので武威をシンボル化して造成された。『見聞諸家紋』では、本郷氏、渡辺氏、饗庭氏。一文字三つ星は、長井?毛利?竹藤?萩?綺氏。三つ星に吉の字は毛利氏。三つ星に一文字は、渡辺?曽禰崎氏が用いた。
吉良。義氏之次男義継。號東條。三男長氏。號西條。
今川。吉良西條長氏次男國氏。號今川。
足利尊氏が後醍醐天皇から下賜されて以來、足利幕府は一族の吉良氏、一色氏をはじめ、管料の畠山、細川氏をはじめ勲功のあった三好義長、松永久秀、上杉謙信、大友宗麟らに下賜。最後の將軍足利義昭も前例にならって、織田信長へ與え、信長もまた秀吉?家康らに與えて優越感にひたる。今日の勲章にも似た価値観があったものか。
仁木。義実嫡子実國號仁木。
【三つ星に一文字】
鎌倉幕府執事権北條氏の家紋として有名。戦國以前、早くも『蒙古襲來絵詞』のなかに鱗紋は現われている。前北條氏の滅亡後、伊勢新九郎が小田原に入り、北條早雲を名乗る。以後、後北條氏一族の家紋として襲用、さらに拡充をみる。
『見聞諸家紋』のころ(応仁末年=1468~文明二年=1470までの間に成立)では、武家の間に多くみあたらない。薬師寺掃部助元隆の三つ橘紋と小寺藤兵衛尉の三つ橘に藤巴が記載されている。戦國末期に台頭する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘紋をしようしていた。
『見聞諸家紋』では、大友豊後守親繁、摂津修理大夫之親、田村氏、安芸の毛利氏(替紋)、飯河遠江守、崎和筑前守などが抱き杏葉紋。近江の目賀田氏が三つ盛杏葉。芸州の厳島氏、大野氏、溫科氏などが杏葉九曜。大友氏は相模出身の豊後守護だが、一族や有力家臣にも與えて同紋の衆として優遇した。立花氏も大友一族として同紋。元亀元年龍造寺氏が大友宗麟を破り杏葉紋を家紋とする。のち、龍造寺氏を斷絶させて杏葉紋を奪ったのは重臣鍋島氏。
『見聞諸家紋』では、欄干丸に鷹の羽の町野左近將監敏康、並び鷹の羽の菊池氏。違い鷹の羽の後藤左京亮、抱き鷹の羽に二つ引両は美馬氏、三本鷹の羽の稲毛氏。摂州の太田氏は一つ引両に違い鷹の羽、加州の倉光氏は五本鷹の羽、中村氏は丸輪に違い鷹の羽、福井氏は違い鷹の羽がみえる。『長倉追罰記』は菊池氏だけ。戦國末期に土岐氏族の淺野氏が違い鷹の羽を用いた。
吉見。義朝五男范頼子法師範円。吉見祖。
【丸に蔦】
文中にひいた『見聞諸家紋』は、一名を「東山殿御紋帳」ともいわれる通り、室町幕府八代將軍足利義政の頃の將軍家を初めとして、守護大名から國人層に至るまでの諸家二百六十ほどを次第不同に収録したもので、武家家紋の研究には欠かせない史料としてつとに有名である。
武田。頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府將軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奧州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神托。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈國後。鎮座於摂津國住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鍾愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔當家為紋。
【桔梗】
畠山。義兼嫡子義純。號畠山。義兼者義清弟也。
『見聞諸家紋』には、小田又次郎知憲、肥田助太郎政秀、中沢、多賀、赤田、平尾。長宗我部氏がみえる。三つ葉の間に剣を配した武家好みのデザイン「剣酢漿草」はこのあと、戦國期に入ってからであろう。徳川氏関系の戦國大名では酒井、森川氏などがある。
雲に左三つ巴。
其之弐
【繋ぎ馬】
【違い鷹の羽】
【軍配団扇】
【丸に唐花菱】
【鶴の丸】
また、『永倉追罰記』は『羽継原合戦記』ともよばれたもの。これの原典となる『永倉狀』には家紋のことは記されていないという。しかし、紋章武將名についてみるとき、『見聞諸家紋』に比べて劣ることは否めないが、內容的に大過がないのではないかと考え、暫定的參考書にとりあげた。
諏訪明神の神紋として有名。『羽継原合戦記』では、信州諏訪付近の豪族下條、山辺氏らがみえる。神官の出自をもつ梶、神、祝、金刺、矢守、茅野氏など、いずれも梶の葉紋。大祝の出自をもつ諏訪氏は、上原城にあったが武田信玄の攻撃を受け滅亡。のち一族が徳川氏に誼を通じて諏訪高島城へ返り咲く。所領三萬七千石。
『長倉追罰記』には、常陸の宇都宮氏族の小田の大輔の名がみえ、『見聞諸家紋』には、安芸の宍戸氏をはじめ陶山氏、越智氏族の寺町氏や伊庭氏、茨木氏がみえる。雲州佐々木の吉田氏は三つ盛洲浜紋。松代の真田氏も一つ洲浜紋。
『相國寺供養記』には、武田信在が紅直垂に違い菱の縫い紋をつけていたとある。『長倉追罰記』には、大內介が唐菱。甲斐武田と若狹の守護は武田菱。菱鶴は南部紋。坂西は丸に松川菱。赤沢は松皮菱に十文字。遠州の小笠原も松皮菱などとみえ、武田一門がベースとなっている。『見聞諸家紋』には武田氏の松皮菱、唐花菱。小笠原氏の三階菱。大內氏の唐花菱。秋山氏の松皮菱などがみえる。
細川。義実次男義季。號細川。
【平井桁】
唐花菱
『見聞諸家紋』では、粟生田次郎左衛門尉経行、矢島、真下、富田氏らがみえている。これらはいずれも武蔵を中心とする児玉黨の出自をもつ。三河出身とする奧平氏も児玉黨といい、軍配団扇紋。
【洲浜】
『文正記』には甲斐氏がみえ、『見聞諸家紋』では石井?長井氏がみえる。一般に広く知られているのは、遠江から出て彥根藩主となった井伊氏。いずれにしても井の字を、書き文字か図案化したもので、指示的性格をもつ。戦場で旗指物にした場合、一目了然で分かりやすかったのであろう。
山名。重國嫡男重村。號山名。
斯波。泰氏孫家氏次男宗家。號斯波。
奉公一番衆曽我
二つ引両に左三つ巴
【三つ巴】
『見聞諸家紋』には、熱田大宮司の千秋氏をはじめ、宗像大宮司氏郷、神谷、雀部、尾林、竹內、山內、水原、朝日氏などがみえる。山內氏の場合、一豊の父盛豊は織田氏に仕え、丹波の合戦のとき柏の枝を旗指物にして奮戦。勝利したとき枝に殘った葉が三枚だけだった。よって三つ葉柏を家紋にしたと『土佐山內系図』に伝えているが、事実は山內一門の柏紋ははるかに古い。足利義満と遠祖山內豬右衛門が戦ったとき、すでに柏の指物があったと『別本山內系図』に伝えている。また、奧羽の葛西一族も三つ葉柏紋を使用。